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生きることを考えるきっかけ、死が身近にあった思い

おひさしぶりの記事更新です。親鸞の解説書や脳科学者と禅僧の対談集やら読んでいたら、
ちょっと川の向こう岸に目が言ってしまって、こちら側のほうへ気持ちが切り替えるのに
時間がかかってしまいました。

さて、またキーボードを叩こうと思ったきっかけのブログをご紹介します。
思春期の闘病生活を語られた一読に値する記事集だと思います。ライムライト

この記事を読みながら、自分のことを振り返りました。
私が「死」を考えたのは小学生の頃からだと思います。
母から「お前は早産でね、生まれた時からちっちゃくて命をつなぐのが大変だった。
生まれてしばらく病院にいて家へ帰ってきても2度くらいチアノーゼをおこしたりして、
日赤の病院のご縁があったから助かった。よかったね~」というような話を聞かされた覚えがあります。
その時から「運が悪かったら今のおれはいないんだよな~」。
そしてなんか今ここで生きていることが不思議で、ここいるのは現実ではないような
半ばふわふわ浮いた気持ちを抱えていました。
小学生を卒業するまでは、親も「この子は大人になれないかも・・・」という気持ちを
どこかに持っていたと思います。
それにいわゆる「いじめ」の対象にされていたのもつらかったな。
この両親がいたから耐えられたのだと思います。

さいわい、中学に上がると成長期がうまく作用し人並みの体力をつけることができました。
いじめをしていた奴らより背も高くなっていたりして(笑)。運動部で3年間体を鍛えたおかげです。
そのかわり受験は失敗しましたが(笑)。

・・・人生、まずは体力でしょ。

そうしてなんとか大人になり、なんと就職も出来て、その上結婚まで出来た。
あろうことか子どもたちも生まれた。まっすぐ過ぎる性格が禍し、転職も幾度かしました。
死にたくなるようなストレスを抱えた事もありました。がこうして介護福祉士として生き直してもいます。

贅沢でもないし、出世ラインも踏み外したけど、「言うことなしの半生」ではないかと思います。
一緒に仕事してきた人と引き比べてみたら「負け犬」っぽく見えるかもしれません。
でも生きているのだから「いいと思います」。今の方がずっと生きているじっかんがありますもの。
一時期、いわゆる一流企業と言われる人と一緒に仕事をしたこともありますが、きっと彼らも辛いと思います。
競争も激しいですしね。病気で急死したりする人もいましたし。

なんかまとまりのない話をしてしまいました。
彼女のブログを読んでいたら、「死」を身近に感じた経験はつらかったですが
「無駄」ではなかったことを思い起こさせたのです。
そして、その経験が、今に生きているのではないかと思うのです。
時々職場でも言うフレーズがあるのですが「人生無駄がない」。そう思います。
回り道の人生を歩いてきたけど、前を向いて生きていた分、今の介護の仕事に無形の力を与えてくれている。
そんな気がします。

施設に入居しておられるおじいちゃんおばあちゃん。
なかには100を越える方もおられます。その生きてきた歴史に思いをはせると、
この方々晩年はなんなんだろうか?そんな疑問が起こります。
生きることに意味があるのか?
この疑問には答えがみつかるかわかりません。
なので、せめて「病み衰える時間をどう過ごしたいのだろう?」と思うのです。

認知症で自分が壊れゆく不安にさいなまれる人。
行き場がわからずさまよう人。
脳梗塞で体の自由がきかない人。
寝たきりで体も動かせず、うなることくらいしか出来ないひと。
食べたいのにむせてしまい、食べることが苦痛になってしまう人。
一方、経管栄養で有無を言わさず生かされている人。
そして、来たくも無い施設に送り込まれて希望を見出せない人。

お一人お一人違います。その人たちを眺めていると、少しでもなにかの手を差し伸べなければと
思うのです。
「心配しなくていいから」と声をかけることからでもいい。
痛くないように移乗介助や寝返り介助を行うことも大切です。
でも、もう少し魂に響く語りかけや介助技術が出来ないかと思います。

それは、うまく心に添えたサービスが出来たときの笑顔がうれしいからかもしれません。
でもそれは一瞬で消えてしまうものです。またその笑顔を見たくて試行錯誤や
同僚への「おせっかい」を焼いてしまうのです。いらぬ葛藤が付きまといます。

「喜び」が「苦」となってしまう。そう言えるかもしれないですね。でも止められない。
ある意味それは「使命」と言えるかもしれませんから。

その人が「生きる」。それぞれの境遇のなかで、よりよく生きて死んでいく。
それが介護職の使命でないかと思うのです。

それが社会のニーズとなってくるでしょう。

そのためには、観察し、仮説を立て、実践し、評価する。
この行為を積み重ねていかなければいけない。
その時、観察する目を鍛えておく。しっかりとした介護感がないと
その人に必要な仮説も立てられない。
いわんや、痛みを与える身体介助を平気で行ってしまうでしょう。

「淘汰されるべきは、介護感なき介護職」。
その為には、教育が必要なのです。鍛え直すチャンスを差し出さねばいけないのです。
それをつかむか拒むかは本人次第でしょうが。
人手不足の業界では理想を掲げるのもむずかしいのが現状でしょう。

理想を掲げる経営者もどれだけいるかわかりませんが?

だからこそ介護研修の講師が「夢」となってきたのかもしれません。


ブッダはこの世にいる限りは「解脱」はできない、煩悩からは逃れられない。と言っていたそうです。
でも、死ぬ直前に最後の土壇場に「これだけのことをやりぬいた、納得して死ねる」。
それがこの世における「解脱」ではないか?と
当のブッダは80歳の生涯を生き切ったと死の間際に語ったそうです。
 ---引用(「人は死ぬから生きられる」脳科学者と禅僧の問答 茂木健一郎 南直哉 新潮新書

そこまで命を燃やせれば言うことないです。
[ 2011/09/26 03:11 ] 死生観 | TB(0) | CM(4)





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