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生か死か?いや、そうではないのだ。

生きるべきか、死ぬべきか。
それが問題だ。

そういったのはシェークスピアでしたが、
今回はそれとはちょっと違います。

Quality of Life
Quality of Death

生活の質。かたや、死の質。
どちらも注目されています。
どちらがより重要かなど答えは
出せないと思います。

生きることと死ぬことは分けて考えられないからです。

では、Quality (質)をどう捉えたらよいのでしょうか?
私はこう考えます。

Quality of now(今ここ)

今の連続が未来となり、その過程として死がある。
だから「今ここ」を考えることが生死を分けへだてることなく、その質に目を向けることができるのではないでしょうか。

生きる過程において、何も出来ない時があります。でも、「今ここ」に共にいることができるか?そこが重要なのです。

Quality of now

これからのキーワードになってくるのではないでしょうか。
[ 2016/03/21 00:28 ] 未分類 | TB(0) | CM(2)

介護はデカルトから脱却できる

・・・突然閃いた

「我思わずとも、我あり」

この一言が世界を変えるかもしれない。

「我思う、ゆえに我あり」

この呪縛から解き放たれるだろうから

人はそれほど万能でもなく、なにも支配など出来ない。

死は平等に訪れ、いのちは廻ってゆく。


我思わずとも我あれば、人は謙虚にそして自由になれるのではないだろうか?
[ 2016/02/29 23:04 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

尊厳は与えられるものではなく、大気のように当たり前にあるもの

尊厳大気論

「尊厳」を語る上での前提条件のひとつは

「存在への圧倒的な肯定感」

これに尽きるのではないだろうか。
すると、
生きることのみが全てではないが最後まで生きていけると思える、と思いたい。



この「尊厳」が介護現場における「大気」とするならば、「肯定感」が酸素であり、「無関心・否定感」が二酸化炭素となる。
ならば尊厳に対する無関心や否定感が高くなると、介護現場は「酸欠」状態となるだろう。

この根本的な環境が酸欠状態である介護現場はどうなってしまうか?


意欲的なことをしたくても考えられない、むしろ職員・経営者の都合で業務が進行するだろう。
きっと悲劇もこの中から生まれてしまう。
利用者にとっても、職員自身にとっても、、、

こう考えると、介護の教育マネージメントは、小手先でなくもっと根本から考えてなくてはいけないのではないだろうか?
[ 2016/02/29 00:51 ] 介護論 | TB(0) | CM(0)

介護職は自立と成長を支援するのだから

再考してみました。
新しい介護職の通称。

「ケア・インディペンダー」もしくは「ケア・インディグロウサー」

意味は、
自立支援としてのインディペンデンス=independence。
そして成長という意味のグロウス=growth。
それら自立と成長の視点を持ってケアができる専門職。
それが「ケア・インディグロウサー」なのです。

以前ヘルパーやケアワーカーに変わる言葉は作れないか考えました。
ケア・スタンド 「傍にいる者」や「寄り添う者」として「スタンド」がいいか?
はたまた、
ケア・ローダー 「導く」という意味の「ロード=Lead」。
そして、
ケア・ディグ二ティ(尊厳)もどうかと思ったのですが、
その表現ははちょっと違うかなと思い外しました。

なぜそんなことを考えたかと言うと、イメージ戦略です。

地域包括ケアを進めていく場合、介護職の存在はとても重要です。
しかし、他職種と同等に活躍出来る状態かと言うと・・・「はい」とは言えません。
実践はすでにできている面は多いと思います。
素晴らしい方は大勢おられると思います。しかし、伝えるスキルがない。だから会議でも黙ってしまう。
本当は患者・利用者の代弁者となれるのに。

自分の言葉で医療職や他職種に語る力を持たないと、どこかの誰かが言っている「地位向上」なんて
100年経ったって不可能です。
棚ぼたで介護報酬は上がりっこない。

この四半世紀の介護職の認識は、世間一般も介護職自身も、受け身で「誰でもできる安易で安価な仕事」
というものは拭い去れないと思います。
本当は「生きることそのものを支える、さりげなくとも、とてつもない専門職」であるのに。
そういう負のイメージを払拭していくのに新しい通称を考えるのもよいのではないかと思ったのです。


だから、
名は体を現す。その意を込めて上記の通称を考えたのです。
『介護職が患者・利用者の自立と成長の視点を持ちながらケアができる専門職。』

これができれば単なるお手伝いとは違うと認められるでしょう。

もう少し考えてみましょうか。
全面的な業務独占は「生活の直接支援職」の面から考えるとそぐわない気がします。
しかし、介護福祉士から介護福祉専門員でなく、認定介護福祉士的な能力を持った者は
一部の業務は「業務独占」があってもよいのではないかと思います。それが介護報酬に反映されて
介護の仕事を一生の仕事として成り立たせる必要レベルの収入が担保されるのであればそのほうがいい。
優秀な人材も入ってくると思います。

日本語で表していくとどうだろう?

 「介護師」

一部の医療面も担う、重度化する対象者(0才から100才までみるような)の介護も行え、
教育やマネジメントも指導できる能力があり、他職種に影響力を持つような専門性と
伝達・コミュニケーションスキルを兼ね備えた存在。
これからの介護職はこういう存在になりえる可能性を秘めています。

私自身そうありたいと思うのです。



この項はこれまで。
[ 2016/02/19 23:45 ] 介護論 | TB(0) | CM(0)

在宅サービスを考える上で

在宅サービス 楔(くさび)論

イマジネーションとクリエイティビティ。

想像力と創造力は介護に限らずどの業界でも必要なのですが、あえて提言してみます。

在宅サービスの現場では、限られた環境の中で、いかに生活を維持しより良くするかを考えなければなりません。
例えば、最近行ったことでこんなことがありました。
・キッチンの道具の配置を変えて動線を広くしました。これは事故率や利便性が変わります。
・動きにくい手の様子を視て、リモコンの台を日用品を利用して作る。
・褥瘡予防のポジションニングを医療・看護に働きかけていく。
・夜間の尿パット交換を家族の介護力に合わせてオムツのセッティングを考える。小さなパットを有効に使える工夫をしてみる。

特別なものを買わなくても知恵と多職種の協力で変化が生まれました。

患者・利用者の方を見て、想いを共有出来たからだと思います。
ただ、それだけはコトは動きません。
便利な手段を考えればいいというものではないのです。

それでは何が大事なのか?


在宅サービス(医療・看護・介護)は、
見えないところの想像力と、現場で生み出す創造力のふたつの力が必要だ。
そうでなければ、
その人の想いは無視され、
根拠のあるサービスもできない。
なぜそうするかという目的も見えてこない。

その人の人生のすべてを支えることのは出来ない中で、その人が自分の人生を生きていく支えを楔(くさび)のように打ち込んでいくのが在宅サービスなのだ。
深すぎてもいけないし浅すぎてもいけない。必要なところに必要なだけ入っていく。
だから、自分たちが入らない多くの時間を想像できなければプロのサービスとは言えない。
創造性が発揮されなければ、生活が豊かにならない。

在宅サービスとはそういうものではないだろうか。


これは在宅も施設も大きくは変わらないでしょうけど。
[ 2016/02/13 22:08 ] 介護論 | TB(0) | CM(0)





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